1.はじめに
2025年11月21日(金)、神奈川県・神奈川県治水砂防協会共催の『かながわ砂防事業100周年記念講演会〜地域を守る次の100年へ向けて〜』が神奈川県足柄上合同庁舎5階大会議場(開成町吉田島)で開催されました。講演会の次第は以下のようになっていました。
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開会あいさつ
神奈川県治水砂防協会会長 加藤 修平:南足柄市長
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神奈川県からのあいさつ
神奈川県県土整備局河川下水道部長 竹内 章裕
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講演「今後の砂防行政の取組について」
国土交通省水管理・国土保全局 砂防部砂防計画課長 椎葉 秀作
p.1
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講演「砂防の歩み、そして・・・」
(一社)全国治水砂防協会 副会長 岡本 正男
p.13
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講演「関東地方の歴史的大規模土砂災害」
(一財)砂防フロンティア整備推進機構 専門研究員 井上 公夫
p.35
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講演「砂防と私」
神奈川県砂防ボランティア協会 会長 網倉 孝
p.77
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閉会あいさつ
神奈川県県土整備局河川下水道部砂防課長 細川 順一
開催主意書によれば、
「本県の砂防事業は、大正12年(1923)の関東大震災を契機に、大正13年に酒匂川水系、相模川水系などで、砂防指定地が指定され、大正14年(1925)から、国直轄砂防事業が開始されたのが、始まりである。
県は、その2年後の昭和2年(1927)に須雲川砂防事務所を、昭和3年(1928)には、相模川砂防事務所および酒匂川砂防事務所を設置し、県による本格的な砂防事業が開始され、現在も、県民のいのちと暮らしを守り、鉄道、道路などの重要なインフラを保全するため、事業を進めている。
本年は、県内において砂防事業が開始されてから、100周年を迎え、新たな1世紀のスタートの年にあたる。
これを記念し、県民のいのちと暮らしを守り、社会・経済活動を支えつづける、これからの100年に向け、砂防事業の普及発展及び促進を図る記念イベントを開催する。
令和7年11月吉日
神奈川県砂防課長 細川 順一」
と記されています。
写真1 記念講演の会場
写真2 パネル展の会場(神奈川県提供)
写真1に示したように、記念講演会は非常に盛会で、200名近い参加者がありました。
同時開催のパネル展として、大会議場の横の部屋でパネル展が行われました。
「
かながわ砂防100歴史パネル展」
100年を経た今もなお土砂災害から「いのち」と「くらし」を守り続ける大正14年(1925)に完成した堰堤や国指定登録有形文化財に指定された堰堤たちの今の姿や貴重な資料をパネルにして展示します!
「
関東大震災写真パネル展」
大きな揺れで丹沢や箱根の山地全域を崩壊させ、かながわの砂防のきっかけとなった関東大震災の当時の貴重な被災写真などをパネルにして展示します!
パネルは全部で60枚用意されており、大変分かりやすい展示でした。
写真3 関東大震災写真〜かながわ砂防100のパネル写真(神奈川県砂防課提供撮影)
写真3では、3枚のパネル展示の画像を示しました。
井上は『関東地方の歴史的大規模土砂災害』と題して講演しました。
この準備段階で、小田原市郷土文化館に行き、関東大震災時に熱海線根府川駅付近の寒ノ目山トンネル事故について、下記の文献があることを知りました。
- 田中里奈(2024a):小田原市郷土文化館企画展「令和5年度企画展 100年の記憶と記録
―小田原の関東大震災―,神奈川県温泉地学研究所観測だより,74号,p.27-36.
- 田中里奈(2024b):【資料紹介】関東大震災 寒ノ目山トンネル事故関係資料,小田原市
郷土文化館研究報告,60号,p.13-16.
2.小田原市郷土文化館令和5年度(2023)企画展
大正12年(1923)9月1日11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の大正関東地震が発生し、東京・神奈川・千葉・埼玉・静岡・山梨の1都5県で、震度Y以上の揺れを観測し、各地に甚大な被害をもたらしました。しかし、発生から100年が経過した現在では体験した人がほとんど亡くなり、関東大震災はあまたの災害のひとつとなりつつあります。
小田原市郷土文化館は、震災から100年を迎えた令和5年(2023)に、未曾有の大震災を振り返り、改めて防災について考える企画展『100年の記憶と記録―小田原の関東大震災―』(8月26日〜10月29日)を開催しました。
小田原は、酒匂川が形成した足柄平野を中心に市域が広がっています。この平野は約1万年前以降という比較的新しい年代に形成された沖積低地であることから、関東大震災では足柄平野の広い範囲で震度Y以上を観測し、建物の倒壊や火災、土砂災害などで激甚な被害を受けました。神奈川県(1927)によれば、足柄下郡(小田原町を中心とした1町13村)で、死者・行方不明者は1683人となりました。また、総戸数1万6252戸に対して、半壊以上の家屋は1万4853戸(被災率91%)にも達し、被災率は神奈川県内でも群を抜いて高くなっています。
近隣に目を向けると、足柄村井細田(現小田原市扇町)では、小田原紡織株式会社の煉瓦造りの工場が一瞬にして倒壊し、10代〜20代の女子を中心に134名が圧死し、重傷者も200人に達する大惨事となりました。
熱海線の国府津駅から小田原駅に至る線路や東海道線(現御殿場線)下曽我駅近辺の線路は、築堤が崩れて列車が転覆しました。小田原城址の天守台跡や石垣が崩れ、小田原御用邸の建物も倒壊しました。このほか、道路の亀裂や陥没、駅舎やホームの倒壊、鉄橋やトンネルの崩落、小田原城址や酒匂川流域の液状化などで小田原は各所で大きな被害を受けました。
大正9年(1920)に完成した酒匂鉄橋は橋桁のひとつが酒匂川に落下し、大正12年(1923)7月に完成した鉄筋コンクリート製の酒匂橋は完成からわずか40日で崩壊しました。
片浦村根府川(現小田原市根府川)では、根府川駅、白糸川流域、寒ノ目山トンネル出口の3ヶ所が土砂災害に巻き込まれ、600人以上が犠牲となる大惨事となりました。
小田原市根府川付近の土砂災害の詳細については、いさぼうネットのコラム40,74,87をご覧下さい。
3.根府川の土砂災害に関する新しい資料
小田原市郷土文化館の企画展が始まって1週間後の9月2日に、神奈川県大井町在住の尾ア氏より小田原市郷土文化館に震災に関する5点の資料が寄贈されました。いずれの資料も根府川地区の土砂災害に関するもので、これまで知られていない新たな事実を伝えるものでした。奇しくも震災から100年、不思議な運命を感じるとともに、驚いたそうです。
写真4 尾ア道太郎氏の肖像と山津波に飲み込まれた機関車(小田原市郷土文化館蔵)
寒ノ目山トンネルは、根府川駅から真鶴駅に向かって白糸川橋梁の先にあるトンネルです。トンネル出口付近で発生した土砂災害とは、熱海線の真鶴駅を発車し根府川駅へ向かっていた上り116列車が、トンネルを通過中に関東大震災に遭い、先頭の機関車が白糸川を流下した山津波(土石流)に巻き込まれた事故です(井上,2013,コラム87)。この事故で機関車に乗務していた機関士と火夫が亡くなりましたが、客車はトンネル内にあったため、乗客は無事でした。写真4の背後の写真は、トンネルの出口で列車が土砂に埋もれている状況を写したもので、関東大震災の被災を伝える有名な写真です。手前の写真の機関士については、長年、それこそ100年間ほとんど知られていませんでした。それが今回郷土文化館に寄贈された資料によってその人物像が明らかになりました。
写真4の男性が殉職した機関士の尾ア道太郎氏です。明治29年(1896)足柄上郡湯触村(現足柄上郡山北町)の岩本家の八男として生まれ、1歳の時に尾ア清兵衛・ツキ夫妻の養子となりました。大正7年(1918)発行の『鉄道員職員録』に、山北機関庫の機関手見習として名前が記されていることから、この頃(22歳)には鉄道員に採用されていました。震災の年である大正12年(1923)には国府津機関庫所属の機関士に昇格していました。そして、上り116列車に乗務中に関東大震災に遭い、山津波(土石流)に巻き込まれて命を落としました。享年28歳でした。
写真の道太郎氏は鉄道省の制服を着用しています。写真がやや不鮮明なため判然としませんが、鉄道院から鉄道省に昇格したのが大正9年(1920)であるため、写真は道太郎氏が25〜27歳頃に撮影されたものと思われます。
写真4の機関車は進行(小田原)方向に対して逆方向を向いていますが、当時の熱海線終点の真鶴駅には転車台がなかったため、機関車の方向を変えることができず、到着した下り列車は、上り運転ではバック走行のまま客車を牽引していたためです。
なお、この機関車は約1年後に掘り起こされ、湯河原駅へ廻送されており、同じ頃に道太郎氏や火夫の遺体も収容されました。
寄贈資料の中には書きかけの婚姻届けがあり、半折れにした和紙をこよりで綴じてありました。表面には夫となる人の欄に住所、義父母の氏名、道太郎氏の署名・捺印、生年月日が書かれ、結婚間近であったことがわかります。中面には、届出人の夫の欄に道太郎氏の署名・捺印、証人欄に尾ア清兵衛氏のほか1名の署名・捺印、提出先である足柄上郡川村(現足柄上郡山北町)の村長高橋熊太郎氏の氏名が書かれ、道太郎氏の義父・尾ア清兵衛氏が結婚に同意する旨が記載されていました。
一方、妻側の欄はほとんど未記入で、表面の住所欄に「神奈川県足柄上郡」と書かれているのみでした。まず夫である道太郎氏が必要な箇所を記入し、その後に妻となる人に記入してもらい、足柄上郡川村の村長宛に提出する予定だったのでしょう。未提出の婚姻届けが尾ア家側に伝わっていることからも推測できます。
また、寄贈された資料にあった鉄道省からの追悼文には、震災時の尾ア機関士の行動が書かれていました。それによると、機関士は地震に気付いて列車を急停車させたのち、列車を後退させました。尾ア機関士は急停車後に周囲の様子をうかがった際、進行方向にある根府川駅で列車が地すべりに巻き込まれた状況を見たことでしょう。白糸川橋梁にも変状が認められたのでしょうか。そして、停車した場所では同様のことが起こるのではないかと予見して、列車をバックさせトンネル内へ避難させることを考えたようです。後退させた理由はそのように考えられます。しかし、客車がトンネル内に入り、あと少しで機関車も収まるところで、山津波に巻き込まれてしまいました。白糸川上流部の大洞地区で大規模崩壊が発生し、根府川の集落を襲った土石流が5分後に流下しました。尾ア機関士と火夫の2人の命は山津波の直撃を受けて亡くなりましたが、寄贈された資料は亡くなった機関士の人物像や、彼の判断によって多くの乗客の命が救われたことを後世に伝える貴重な資料です。
写真5は、大正13年(1924)6月7日に小松謙次郎鉄道大臣より贈られた彰状です。彰状には、「9月1日の大震災に対して、一家の災危や自らの危険を顧みず行動したことに対して職員表彰規定第一条第二号により、效績章を授与する」とあります。また、特別賞与金として100円が授与されています。
田中(2024b)などによれば、下り109列車は根府川駅に11時58分到着した時に関東地震による激震を受けました。そして、機関車と列車は、根府川駅と一緒に地すべり変動を受け、海にまで崩落しました。上り116列車は根府川駅で109列車と行き違いのため、寒ノ目山トンネルを通過して白糸川橋梁に差し掛かる瞬間に、激甚な地震動に遭遇しました。このため、尾ア機関士は列車を急停止させました。その後、列車を後退させて寒ノ目山トンネルに戻しました。白糸川上流の大洞(3.9km上流)で発生した大規模崩壊が土石流(山津波)となり、5分後に白糸川橋梁に到達しました。乗客はトンネル内に戻っていたため無事でしたが、トンネルに戻り切れずにいた機関車は土石流の襲来により、殉職しました。この功績により、尾ア機関士を技手に昇格させ、效績章が授与されました。
写真5 小松謙次郎鉄道大臣から授与された尾ア道太郎の彰状(小田原市郷土文化館蔵)
4.小田原−熱海間の交通の発達
小田原−熱海間(20.7km)は、箱根火山の外輪山が相模湾に面して急峻な地形をなしています(コラム40)。この間の海岸線の美しさは、外国人向けの『旅行案内』に「日本の代表的な景勝である」と紹介されていました(加藤,1995)。明治14年(1881)に小田原−熱海間の県道が開通しましたが、人力車で5時間もかかりました。国鉄東海道線の横浜−国府津間は明治20年(1887)7月に開通しました。外国人を含め、箱根温泉の湯治客が増加したため、「小田原馬車鉄道」が明治21年(1888)に国府津−小田原−箱根湯本間の鉄道を建設しました。小田原−熱海間については、「豆相人車鉄道」が明治29年(1896)にトロッコ鉄道を開通させました。この鉄道の実物模型がホテル星ヶ山に動態展示されています(写真6,7)。
写真6 小田原−熱海間の人車鉄道
(内田一正(2000)『人生八十年の歩み』)
写真7 ホテル星ヶ山で復元された人車鉄道
(内田昭光氏提供)
写真6(内田,2000)と写真7(実物模型)に示したように、1両の客車を3〜4人の押し手が登りは押すという極めて原始的なものでした(小田原−熱海間4時間)。登り坂にかかると下等の客は降りて、押し手と一緒にトロッコを押さなければなりませんでした。
この人車鉄道が一番繁盛したのは、日露戦争(1904〜1906)の頃で、湯河原、熱海の温泉地に療養させるため、多くの傷病兵が運ばれました。明治40年(1907)に小田原−熱海間の人車鉄道は軽便鉄道(蒸気機関車)への切り替え工事が始まりました。芥川龍之介の短編小説『トロッコ』(1922)は、切り替え工事を舞台として、トロッコに興味を持つ8歳の少年が主人公の物語です。青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で読むことができます。当時の機関車は現在熱海駅前のロータリーで展示されています。
東海道線(現御殿場線)の輸送量が増加するにつれて、次第に輸送が困難となりました(単線区間であり、御殿場付近で標高500mを越えた)。このため、丹那トンネル(全長7804m)を通るルートの建設が大正2年(1913)に決定されました。熱海線は将来の東海道線として、国府津−小田原間が大正9年(1920)、小田原−真鶴間が大正11年(1922)に開通しました(関東地震時は真鶴駅で折り返し運転)。このため、併走区間の軽便鉄道は廃止され、関東地震発生時(1923)には真鶴−熱海間に軽便鉄道が残っているだけとなりました。
図1は1/2.5万の旧版地形図「小田原」図幅で、左図は大正5年(1916)測図、右図は昭和8年(1933)修正測図です。小田原市石橋〜江之浦間は、風光明媚と言われた地形を示しています。
大正5年(1916)の地形図では、細く曲がりくねった県道と軽便鉄道(赤線)が描かれています。関東大震災から10年経った昭和8年(1933)の修正図では、熱海線(東海道線,丹那トンネルの開通は昭和9年(1934)12月)が緩やかなカーブで描かれています。根府川駅の南側を白糸川が流れ、根府川集落がありました。その上に白糸川橋梁が架橋されました。この橋梁の南側に寒ノ目山トンネル(隧道)が建設されました。
図1 1/2.5万旧版地形図「小田原」図幅(左:1916年修正、右:1933年修正)
(関東地震前後の小田原南部・片浦村区間の地形と土地利用の比較)
図2 関東大地震根府川地区全戸敷地地図(内田(2000)のカラー原図に地名を追記)
図2は、関東大地根府川地区全戸敷地地図(内田一正,2000のp.20のカラー原図)で、内田昭光様からお聞きした地名などを追記しました。緑色の範囲は白糸川の土石流の流下・堆積地域、白色の地域は土砂堆積を免れた範囲を示しています。根府川駅の付近は、根府川地すべりの範囲で多くの人家、根府川駅、列車が相模湾まですべり落ちてしまいました。地すべり地頭部はほとんど人家がなく、空地となっています(図1の右図では崩壊地形が示されています)。現在は片浦小学校が建設され、その下にプールと数軒の人家が存在します。
根府川駅から南に熱海線が通り、白糸川の上には白糸川橋梁が架設され、その南に寒ノ目山トンネル(隧道,延長約360m)が建設されています。
写真8は震災前の根府川集落と建設中の国鉄白糸川鉄橋、写真9は根府川集落を埋没させた土石流の流下・堆積状況を示しています(神奈川県,1927,復刻,1983)。この土石流で根府川集落91戸のうち,72戸が埋没しました。人家の名前は内田氏が当時の戸主の名前を思い出して追記したものです。赤字で示したK内田一正氏やP廣井美夫氏などの家は、土石流の流下・堆積範囲となりましたが、R内田鉄雄氏(写真9ではB)から上の人家や寺山神社は被害を受けませんでした。生き残った人たちは、すぐ上の秋葉山に駆け上がり、大勢の人が集まって、共同生活が始まりました。
写真9右上の@は落橋した熱海線の白糸川鉄橋です。昭光氏によれば、手前に開削した箇所にトロッコのレールがありますが、被災者が土石流堆積物を掘り起こし、家財を搬出するために敷設したレールとのことでした。
写真8 震災前の根府川集落と建設中の白糸川橋梁(大震災写真帖,1927)
(戸主の名前などは内田2000で追記),KP以下は人家埋没,Rは埋没せず
写真9 根府川集落を埋没させた土石流(大震災写真帖,1927),
91戸中72戸埋没 (Bが内田哲雄氏宅)
5.関東大震災による白糸川橋梁の被災記録
砂防図書館で関東大震災関係の蔵書を調べていたところ、下記の貴重な報告書を発見しました。
復興局(1927):大正十二年震害調査報告(第二巻),鐡道・軌道之部,本文,85p.,表,
三十六葉,写真,四百七十九葉,附図,百十七葉
この本には関東大震災による鐡道・軌道の被災状況が、路線別に詳述されており、駅舎や線路、隧道、橋梁被災の写真や関連の図や表が示されています。熱海線については、第一編 國有鉄道,第九節 熱海線(国府津−真鶴間,11.2哩)で説明されています。鉄道距離は明治5年(1872)の新橋−横浜開通以来、哩(マイル)で表示されていました(1哩(マイル)=1.609km)。日本交通公社(1978):時刻表復刻版によれば、日本で最初の『汽車時間表』は大正14年(1925)4月号から発行されていますが、距離は哩(マイル)表示となっていました。その後の時刻表も哩(マイル)表示でしたが、昭和5年(1930)10月号からは、時刻表の距離がkm表示に変わっています。丹那トンネルの開通は昭和9年(1934)12月で、ダイヤ改正が行われました。
1哩(マイル)=1.609km=80鎖(チェーン)
1鎖(チェーン)=20.1168m=66呎(フィート),1呎(フィート)=0.3048m
第九節 熱海線(国府津−真鶴間,11.2哩(マイル)=18.0km)
国府津駅から順に、切取、築堤、土留壁、橋梁、隧道、停車場、跨線橋、地下道、給水器、信号機、軌道、列車に分けて、被災状況や応急工事の概要が説明されています。
- 酒匂川橋梁(国府津起点,2哩53鎖=2.66哩=4.3km),延長2323呎=708m
- 小田原駅構内(同,3哩53鎖=3.66哩=5.9km)
- 小峰隧道(同,4哩25鎖=4.31哩=6.9km),延長854呎=260m
- 不動山隧道(同,5哩35鎖=5.44哩=8.8km),延長330呎=101m
- 玉川橋梁(同,5哩78鎖=5.98哩=9.6km),延長563呎=172m
- 根ノ上山隧道(同,6哩32鎖=6.4哩=10.3km),延長346呎=105m
- 米神山隧道(同,6哩70鎖=6.88哩=11.1km),延長914呎=279m
- 下牧屋山隧道(同,7哩25鎖=7.31哩=11.8km),延長528呎=161m
- 根府川駅(同,7哩52鎖=7.65哩=12.3km)
- 白糸川橋梁(同,7哩68鎖=7.85哩=12.6km),延長654呎=199m
- 寒ノ目山隧道(同,7里71鎖=7.89哩=12.7km),延長約360m
- 八本松隧道(同,9哩42鎖=9.53哩=13.0km),延長251呎=77m
- 長坂山隧道(9哩55鎖=9.69哩=15.6km),延長2211呎=674m
- 熱海線建設線 千歳川橋梁(13哩66鎖=13.83哩=22.3km),延長281呎=86m
以下に復興局(1927)に掲載されている479葉の写真の中から、根府川地区の主な写真を紹介します。
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写真10(写真百十二) 熱海線根府川駅国府津方 切取の損害を海岸より望む (横たわるは列車の残骸なり)
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写真11(写真百七十二) 熱海線根府川駅構内 湾曲せる軌条(その1)
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写真12(写真百七十三) 熱海線根府川駅構内 湾曲せる軌条(その2)
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写真13(写真百七十五) 熱海線根府川駅にて山 崩のため海岸に墜落せ る下り旅客第109列車 の一部
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写真14(写真百七十四) 熱海線根府川駅構内 唯一の残存物たる車止 (国府津方にて撮影)
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写真15(写真百五十九) 熱海線根府川駅構内 潰滅人家土石流錯乱の状況 (国府津方にて撮影)
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写真16(写真百十四,其二,三)熱海線根府川驛附近の基盤の無事なるを海岸から望む
写真17(写真百十四,其一)熱海線根府川驛附近の基盤の無事なるを海岸から望む
写真18(写真百十三,其一,二) 熱海線根府川驛附近の山崩
写真19(写真百十五) 熱海線白糸川上流の断層(大洞の大規模崩壊地)
写真20(写真百十八) 熱海線白糸川泥流の跡を河口より望む
写真21(写真百五十) 熱海線根府川真鶴間寒ノ目山隧道国府津方坑門の崩壊,
列車は上り旅客第116列車なり
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写真22(写真百五十二) 熱海線根府川真鶴間寒ノ 目山隧道熱海方坑門崩壊 土砂を稍々取去りたる處 を示す
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写真23(写真百四十二) 熱海線根府川真鶴間双龍 ノ瀧橋梁の被害(熱海方 に向て撮影)
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写真24(写真百四十) 熱海線根府川真鶴間 双龍ノ瀧橋梁の被害
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図3 附図第六十一 國有鐡道 熱海線白糸川橋梁全形圖(復興局,1927)
図4 附図第六十二 國有鐡道 熱海線白糸川橋梁被害圖(復興局,1927)
(流出土砂堆積区間は橙色、侵食区間は青色で示す)
隧道の被害は甚だしく、小峰、根ノ上山、下牧屋山、八本松及び寒ノ目山の5隧道については、崩壊土砂が内部に充填して不通となりました、このうち根ノ上山隧道は全部、八本松隧道は一部を復旧工事の際に切り取り、明かり区間としました。寒ノ目山隧道は、国府津方の抗門が崩壊して、旅客列車の一部が埋没しました。小峰隧道は坑門より280呎(85m)間は側壁が押出されて傾斜・大破しました。その他ほとんどの坑門口附近で崩壊が発生しました。天井部及び側壁とも剥落・切断などの被害は多くの隧道でありました。
図3の熱海線白糸川橋梁全形圖(復興局,1927)に示したように、白糸川橋梁は、根府川真鶴間・国府津起点7哩68鎖(12.6km)に位置し、全長654呎(フィート),199.3mで、大正11年(1922)に竣工した複線式の鉄橋です。径間は40呎(12.2m)4連、150呎(45.7m)3連の橋梁で、橋台並びに橋脚は基礎躯体共にコンクリートで施工されました。
図4熱海線白糸川橋梁被害圖(復興局,1927)では、白糸川橋梁の被害状況と復旧工事の状況が分かります。白糸川橋梁の被害図によれば、3.9km上流の大洞から流下してきた山津波(土石流,流下するのに5分程度(300秒),速度13m/s程度)によって、6本の橋脚は破壊され、白糸川の左岸側に土石流が厚く堆積しました。南側(寒ノ目山トンネル側)の橋台は海側に崩落し、行方不明となりました。白糸川沿いのコンクリート製の橋脚も行方不明となりました。
復旧工事図を見ると、震災前の位置・標高に橋台と橋脚が復旧されましたが、災害前の地形から5〜10m高く(流出土砂堆積区間は橙色、侵食区間は青色で示す)、土石流が堆積していることが分かります。寒ノ目山トンネル側の南側斜面の土砂堆積は異常に高くなっており、116列車とトンネル坑口付近まで流下土砂が達しています。こんなに高くまで土石流の流下土砂が達していなければ、尾ア道太郎機関士と火夫は犠牲にならなかった筈です。
なお、図1の右側の旧版地形図の右図(昭和8年(1933)修正)では寒ノ目山隧道の坑口は、200m位南側に移動しています。図2に示したように、関東地震時の隧道坑口は、白糸川橋梁の直近でした。地震後の改修工事で、寒ノ目山隧道は坑口付近の破損が大きかったため、橋梁から200m区間の地山を掘削して除去し、明かり区間としました。
6.むすび
2025年11月21日に開催された『かながわの砂防事業100周年記念講演会』において、井上は『関東地方の歴史的大規模土砂災害』と題して講演しました。この時の発表資料を準備する過程で、関東大震災による小田原市根府川地区の土砂災害などを再調査しました。その中で、小田原市郷土文化館で令和5年度に行われた企画展『100年の記憶と記録−小田原の関東大震災』と、田中里奈(2024a,b)の文献を知りました。
企画展が始まって1週間後に根府川地区の寒ノ目山トンネル出口の事故に関する資料が郷土文化館に寄贈されました。この事故で機関車に乗務していた機関士と火夫が殉職しましたが、尾ア道太郎機関士は地震に気付いて列車を急停車させてバックし、寒ノ目山トンネルに客車を戻したために、乗客は無事でした。
根府川地区では、白糸川の土石流による根府川集落の土砂災害と根府川駅の地すべり災害で600人以上の犠牲者がでていますが、寒ノ目山トンネルでの客車事故が発生していれば、さらに100人以上犠牲者が増えていた可能性があります。
まさに尾ア道太郎機関士の適切な判断は、第3の事故を防いだことになり、鉄道大臣の表彰にふさわしい行動だったと思います。今まで知られていなかった尾ア道太郎機関士の人物像とその行動を知ることができたことは、大変意義深かったと思います。
引用・参考文献
- 芥川龍之介(1922):トロッコ,1922年3月「大観」に発表,芥川龍之介全集,第3巻,
千曲書房,1958年発行に収録,青空文庫,https://www.aozora.gr.jp/
- 井上公夫(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,226p.
- 井上公夫(2019):コラム40 関東大震災(1923)による小田原市の土砂災害
―根府川・白糸川流域の大規模土砂災害地点を歩く−,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,
そのU,丸源書店,p.120-133.
- 井上公夫(2021):コラム74 関東大震災(1923)による伊豆半島東部の土砂災害,いさぼうネット,
歴史的大規模土砂災害地点を歩く,15p.
- 井上公夫(2023):コラム87 関東大震災100年,根府川・白糸川を歩く,いさぼうネット,
歴史的大規模土砂災害地点を歩く,22p.
- 井上公夫(2025):関東地方の歴史的大規模土砂災害,神奈川県治水砂防協会・神奈川県県土整備局
河川下水道部砂防課:かながわの砂防事業100周年記念講演会,p.35-75.
- 内田一正(2000):人生八十年の歩み,内田昭光発行,151p.
- 内田宗治(2012):関東大震災と鉄道,新潮社,239p.,ちくま文庫(2023),304p.
- 加藤利之(1995):箱根山の近代交通,箱根叢書(25),神奈川新聞/かなしん出版,235p.
- 神奈川県(1927,復刻,1983):神奈川県震災誌及び大震災写真帳,神奈川新聞出版局,写真,
32p.,本文,848p.
- 須田寛(1978):時刻表にみる国鉄旅客営業のあゆみ(時刻表復刻版戦前・戦中編),日本交通
公社出版事業部,142p.
- 田中里奈(2024a):小田原市郷土文化館企画展「令和5年度企画展 100年の記憶と記録
―小田原の関東大震災―,神奈川県温泉地学研究所観測だより,74号,p.27-36.
- 田中里奈(2024b):【資料紹介】関東大震災 寒ノ目山トンネル事故関係資料,小田原市郷土文化館
研究報告,60号,p.13-16.
- 復興局(1927):大正十二年震害調査報告(第二巻),鐡道・軌道之部,本文,85p.,表,三十六葉,
写真,四百七十九葉,附図,百十七葉
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